ディボーション

2026年04月21日

[コラム] 倒れた者の栄光、愛という名の計り知れない拘束

冷たく鋭く研ぎ澄まされた憎しみが、一人の男の心を満たしていました。ダマスコへ向かうその道で、彼の歩みはキリスト者を根絶やしにしようとする激しい殺意に満ちていました。律法の守護者を自任し、正統の名のもとに他者を断罪していたサウル。彼は、自分こそが神の義を成し遂げているのだと固く信じていました。しかし、正午の太陽をも凌ぐ人知を超えた光が彼を覆ったとき、迫害者サウルは地に倒され、その場で「パウロ」という新しい存在が生み出されました。この世の秩序では決して解き明かすことのできないこの大いなる「転覆」の出来事は、人類の歴史における最も偉大な霊的遺産ともいえるローマ書の序章となったのです。

カンバスの光の中に映し出された敵に向けられた執拗な愛

この劇的な回心の瞬間を深く思い巡らすとき、私たちは16世紀イタリアの巨匠カラヴァッジョ(Caravaggio)が描いた〈ダマスコ途上の回心〉を思い起こします。画面を覆う大きな馬の下で、目が見えないまま両腕を広げて倒れているサウルの姿は、まことに無力そのものです。しかし、その深い闇を貫いて注がれる光は、単なる物理的な光ではありません。それは、どれほど激しい敵であっても「わたしの選びの器」と呼ばれる主の執拗な愛の現れです。カラヴァッジョが用いた劇的な明暗法のように、パウロの生涯は最も暗い罪の深みから、最も輝かしい福音の光へと移されたのです。

オリベットアッセンブリーが志向する宣教的価値もまた、この鮮やかな対比の中にあります。最も頑なな憎しみに満ちた現場を恵みのまなざしで見つめ、そのただ中に神の新しい御業を期待することです。パウロは、自分が神を選んだのではなく、神が先に自分を捕らえてくださったという抗い得ない恵みに、全く心を奪われました。主はサウルの内にあった怒りの力を、福音への熱情へと変えてくださいました。激しく迫害していた者が、激しく愛する者へと変えられるこの逆説は、ただ十字架の福音の中でのみ成り立つ神秘です。このような神学的洞察は、今日の宣教の現場においても、同じいのちの力をもって脈打っています。

低きに流れる名、自らしもべとなった自由な者の告白

パウロはローマ書の書き出しにおいて、自らを「イエス・キリストのしもべ」と言い表します。当時のローマ社会において「ドゥーロス(Doulos)」、すなわち奴隷とは、自らの意思を奪われた所有物にすぎませんでした。主人に生殺与奪を握られた最も低い身分です。しかしパウロが告白するしもべの姿は、悲惨な拘束ではなく、完全な愛に結ばれた者の自発的な献身です。主であるキリストがまず私たちのためにしもべの姿を取り、十字架に至るまで従われたゆえに、パウロはその愛の負債を負う者として、自ら進んで福音のしもべとなることを喜びました。彼はしもべとなることによって、かえって罪からの真の自由を得たのです。

この深い自己理解は、現代のクリスチャンに重い問いを投げかけます。私たちのアイデンティティはどこに根ざしているのでしょうか。パウロは「サウル」というユダヤの王の名を手放し、「小さい者」を意味する「パウロ」という名を選びました。自分を証明しようとする思いを捨て、主によって満たされたその空白の中から、世界を変える使徒的権威が流れ出ていきました。オリベットアッセンブリーの働きにおいても、この「小さい者」の霊性を中心的な価値としています。自分を前に押し出す功績主義や行いの世界を超え、ただ主の全権を委ねられた使徒(Apostolos)として立つこと、それこそが聖書黙想が私たちを導く究極の方向です。「何も持たないようでいて、すべてを持っている」という使徒の告白は、主に完全に属するしもべだけに与えられる恵みです。

世界を癒やす勝利の知らせ、絶望の時代を呼び覚ます福音(エウアンゲリオン)

パウロはこの手紙を、ローマという巨大な帝国の中心へと送りました。政治と権力、学問が渦巻くそのただ中で、彼は「神の福音」を大胆に宣べ伝えました。「エウアンゲリオン(Euangelion)」と呼ばれるこの福音は、本来、戦いに勝利したことを告げる喜ばしい知らせを意味します。罪と死の力が打ち破られ、キリストが永遠の勝利者となられたというこの宣言は、当時のローマ市民にとって既存の価値観を揺るがす解放のメッセージでした。パウロはこの勝利の知らせを携えて走る伝令のようでした。

私たちが向き合っている日本オリベットアッセンブリーの宣教の現場もまた、激しい霊的戦いのただ中にあります。時に予期せぬ困難や迫害が行く手を阻み、パウロのようにエルサレムへ「退く」ことを余儀なくされることもあるでしょう。しかしパウロは、その切迫した状況の中でも決して召しを手放しませんでした。むしろ、明日をも保証できない遺言のような思いで、ローマ書の一節一節を書き記していきました。状況に飲み込まれることなく、私たちを選び分けてくださった神の絶対的な選びを信じ、最後まで勝利の知らせを携えて走り続けること、それが今日私たちに求められている宣教の務めです。福音は単なる知識としてではなく、パウロのようにその言葉にいのちを懸けて歩むときにこそ、その力が現されます。

聖なる「無駄」の時、みことばの足もとで受ける永遠の分け前

最後にパウロは、私たちを「聖別された者」として招いています。かつてパリサイ人であった彼が、福音のために取り分けられるという真の意味での「聖別」を経験したように、私たちもこの忙しい世の中の中で、主のみことばに耳を傾ける「聖なる無駄」の時を持つ必要があります。マルタの忙しさよりも、マリアが主のもとにとどまる姿を良しとされた主の御声は、効率と成果に追われる現代の魂を静かに呼び覚ます恵みです。聖別とは差別ではなく、聖なる神と向き合うための必然の選びです。

パウロには、霊的な絆となったアナニアがあり、また横にあって支える同労者としてバルナバがいました。主は決して私たちを一人にされることなく、アナニアのような執り成し手を送り、バルナバのような同労者を備えてくださいます。オリベットアッセンブリーという信仰の共同体の中で、互いが互いの霊的な絆となるとき、一人のサウルは時代を呼び覚ますパウロへと新しくされていきます。私たちを生かしてくださった主の見えない御手を思い巡らし、福音に対する初めの愛を回復しましょう。私たちがイエス・キリストのしもべであることを忘れず、日々その召しに応答していくとき、福音の勝利の知らせは、私たちを通して地の果てにまで響き渡ります。パウロの告白が私たちの告白となり、その歩みが私たちの使命となる一日となることを願います。

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